タンシチューとノスタルジー
まだ僕が小さかった昭和の頃、酔って帰宅した父親が「今週末はタンシチューでも作るか」と唐突に言い出すことがあった。もっともその週末、タンシチューが食卓に上ったことがあったか、あったとしてどんな味だったか、記憶はおぼろげだ。
それから十数年が経ち、僕が大学生になった平成の頃、当時の僕がのれんをくぐれるような町場の洋食店で、タンシチューを見かけることはなかった。僕にとってタンシチューは幻、かつ憧れの食べ物だった。結局、ありつけるようになったのは、社会に出てからとなるが、その話はまた別の機会に譲りたい。
明治の文明開化の頃、タンシチューは人気の洋食だったという。
1888(明治21)年に発行された「軽便西洋料理法指南」には4種の“シチウ”が掲載されている。そこには「舌のシチウ」が掲載され、味つけもブラウンソース、トマトソース、フランス流のピカントソース(ビネガーやピクルスを使った酸味系ソース)という3パターンが紹介されている(他のシチューのソースはすべて1種類)。
さらに夏目漱石や高村光太郎が足繁く通ったと聞く神田の松栄亭は、1907(明治40)年の創業に際し、たった5品しかないオープニングメニューに「タンシチュー」を採用したという。
レシピから外食まで、往時のタンシチューの人気は語るまでもない。
それから百数十年が経った現代、タンシチューはドミグラス/デミグラスソースを使った高級洋食という認識で統一されている。
明治に端を発する、タンシチューは料理の質はもちろん、歴史を含めた店の“格”が問われるメニューでもある。少し腕のいい若手料理人がおいしい一皿を作っても、よほどでなければ客の心をつかむのは難しい。それほどタンシチューというメニューはノスタルジーと結びついている。
文春マルシェで取り寄せられる「タンシチュー」を探してみた。ヒットしたのは2軒。和歌山の洋食店「フライヤ」と岡山の和食/鉄板焼き店「岡山浜作」のタンシチューだ。どちらも堂々たる老舗の風格があり、「フライヤ」は1933(昭和8)年、「岡山浜作」も前身となる「魚徳」は1902(明治35)年に創業している。
どちらもドミグラス/デミグラスソースで牛タンを煮込んだタンシチューだが、取り寄せてみると、両者は意外なほど違っていた。

厚切り牛タンシチュー 4袋
¥5,530(税込)
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「フライヤ」は焦がしのしっかり入った小麦粉をベースとしたブラウンソース。ぽってりとしていて、学校給食のカレーを想起させる。牛脂で小麦粉を炒めたルウを伸ばし、白ワインやウスターソースで味を調え、隠し味に醤油を垂らしてある。力強く、それでいて懐かしい味わいだ。そこに米国産の牛タンがドーンと一枚。とろりとしたソースに合うしっかりした食感とUSビーフ独特の芳香は、理屈抜きでノスタルジーを刺激する。
一方「岡山浜作」のソースは旨味たっぷり。デミグラスソースという旨味の宝庫の上に、ブイヨン、玉ねぎ、赤ワインにウスターソースなど、次々に旨味を重ねていく。こちらの牛タンシチューには小麦粉が使われていない。実にさらりとしていて、カレーに例えるなら、渋谷のカレーの名店「ムルギー」のようなサラサラっぷり。重ねられた旨味が舌の上をめまぐるしく通り過ぎていく。豪州産の牛タンは、皮を引いて食べやすいサイズにカットされ、軽く噛めば牛タンならではの複雑に絡み合った肉の繊維がふわりとほどける。なんと心地いいことか。
ふと父親のタンシチューの味を想像してみた。たぶん「フライヤ」のようなルウタイプでも、「岡山浜作」のようなサラサラタイプでもない。きっと得意だったビーフシチューのように「軽便西洋料理法指南」のトマトソースに近いタイプだったような気がする。
近く、父の一周忌を迎える。何かと気ぜわしく、イチからタンシチューを仕込んでいるゆとりはなさそうだ。当日はいずれかの封を切って偲ぶとしよう。それにしてもやっぱりタンシチューにはノスタルジーがつきものである。

「岡山浜作」ハンバーグと牛タンシチュー 各2袋
¥5,400(税込)
カートに入れる
松浦達也編集者・ライター
調理の仕組みや科学、食文化史などを踏まえ、料理誌・一般誌・新聞・書籍・WEBまで幅広く執筆・編集を手がける有限会社馬場企画代表取締役。テレビ等で食トレンドやニュース解説も行い、ビジネス書からサブカルチャーまで広範囲の企画に携わる。著書に『大人の肉ドリル』ほか『新しい卵ドリル』(以上マガジンハウス)、『ハイボールとつまみ』(主婦の友社 ※監修)など。審査員をつとめるレストラン年鑑『東京最高のレストラン』(ぴあ)などの共著も。日本BBQ協会公認BBQ上級インストラクターでもある。