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ただ、本能のまま、
かき込む、かき込む
森下典子
エッセイスト

子どもの頃、休日の夕食に、わが家ではちょくちょく「麦とろ」を食べた。
「おっ、今夜は麦とろか!」
と、父が目を輝かす。
麦とろは、家族みんな好きだったが、とりわけ父の大好物だった。
麦とろの日、大活躍するのは、実家の台所の流し台の下にある常滑焼の飴色の大きなすり鉢だった。芋は大和芋。母は芋の表面に生えているひげ根をガスの炎でサッと焙って、すりおろす部分の皮を分厚く剥いた。
流しには、ボウルにたっぷりと水を張り、お酢を少々垂らした「酢水」が用意してある。それに大和芋をしばしさらす。
「酢水にさらすと、とろろの色が変わらないんだよ」
という母の言葉を覚えている。
さて、すり鉢の内側の櫛目に芋を当て、円を描くようにおろしていく。……鉢の斜面を、あぶくのたった白いドロドロが流れ落ち、やがて、すり鉢の底に、こんもりと溜まっていく。
とろろの日に手伝いをすると、手が痒くなった。皮を剥いた部分を触らないように気を付けていても、なぜか腕や肘がムズムズしてくる。そこを掻くと、ますます痒く、真っ赤になった。
そんな時、母はいつも、
「酢水で洗うといいのよ」
と言った。……その「酢水」という言葉も、
「『すり鉢』の『する』は、縁起が良くないから、昔の人は『当たり鉢』って言ったのよ」
という言葉もゆかしくて、このごろ無性に懐かしい……。
櫛目に当てておろした大和芋は、キメが粗い。それを、すりこ木で当たって滑らかにしていく。ここでまた、母の得意の「山椒のすりこ木」が登場する。
「すりこ木は、山椒がいいのよ。山椒には、殺菌効果があるから」
 そう言って母は、当たり鉢の下に濡れ布巾を敷いて、鉢がズルズル動かないように固定した。

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¥4,320(税込)
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「しっかり押さえててよ」
「うん」
私は鉢を両手で押さえる係。母は、山椒のすりこ木を構えて立つ。棒の頭を片手で押さえ、もう一方の手で棒の中ほどを軽やかに回す。力を入れることなく、棒の中ほどを支点に、軽いリズムで回していく。
ごりごりごりごりごりごり……
私はこの音が、たまらなく好きだった。胡麻とも、豆とも違う、とろろ特有のくぐもった音がする。
ごりごりごりごりごりごり……
あの音が耳の底に蘇ると、私は今でも幸せになる。父はまだ働き盛り。母も毎日、張り切って台所に立っていた。
時々、すりこ木を止めては、だし汁を少しずつ足しながら、すり合わせ、コシの強いとろろを、少しずつ伸ばしていく。やがて、白いとろろが淡い黄色に色づき、表面がたぷたぷと波立つように揺れ始めたら、出来上がりだ。

すりおろしただけで、こんなご馳走になるなんて

ご飯はもう炊けて、炊飯器から湯気がたっている。白米に押し麦を混ぜた麦ご飯。
私は子どもの頃から、粒の真ん中に黒い線の入った押し麦が好きだった。ピカピカ光る銀シャリもおいしいが、麦の混ざったご飯は、所々にプチプチとした食感があって、何とも素朴な味わいがある。
いつもよりちょっと大きめの、木賊(とくさ)の模様のご飯茶碗によそい、卓袱台に並べる。麦とろの日のわが家の食卓は、至ってシンプルだった。食卓の真ん中に、とろろの当たり鉢が、どんと置かれるだけ。どこか野趣があり、原始的でさえあった。
仕上げは、とろろの上に、もみ海苔をパラパラと掛けるだけ。木のおたまで掬って、それぞれのご飯茶碗に好みの量をドローッと回しかける。
淡い黄色味を帯びたとろろが、麦ご飯の上に雪崩れかかり、白米と麦の混じり合った粒々の隙間に沈んでいく。
「これはうまそうだ!」
「さあ、いただきましょう」
「いただきまーす」
はふはふと、一口目を頬張る。
その瞬間、海苔の風味と、だし汁の香りに、食欲が色も鮮やかに目を覚ます。そして、舌触り滑らかなとろろと、麦ご飯のプチプチとした素朴な食感が混じり合う……。
鍋も使わず、油やスパイスも入れず、すりおろしただけで、こんなご馳走になるなんて、「とろろ」とは、なんと素晴らしい食べ物だろうか。
そして、一体どこの誰だろう。とろろの喉越しに、麦ご飯という、この素にして奥深い組み合わせを発見した人は……。
後はただ、本能のまま、かき込む、かき込む。
そして、「おかわり!」
ああ、食べるとは、なんという幸せ!
その幸せを、お取り寄せできるなんて……。

森下典子

profile

森下典子エッセイスト

1956年、神奈川県生まれ。日本女子大学文学部日本文学科卒。学生時代から「週刊朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者として活躍。その体験を描いた『典奴どすえ』(角川文庫)が話題となりドラマ化された。その他の著書に、2018年に映画化された『日日是好日 お茶」が教えてくれた15のしあわせ』(新潮文庫)、『青嵐の庭にすわる 「日日是好日」物語』(文藝春秋)のほか、『いとしいたべもの』『こいしいたべもの』(文春文庫)、『猫といっしょにいるだけで』(新潮文庫)など。

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