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白いスープの謎
柴田よしき
作家

私の父は若い頃、とある大企業の社長さんの運転手をしていたらしい。その社長さんは、父をいろいろな店に連れて行ってご馳走してくださったようだ。当時の父の給料ではとても行けないような高級店が多かったのだと思う。
その後独立して小さな会社を興した父は、私が子供の頃、年に一度だけ、築地の料亭・治作に、家族と従業員の人たちを連れて行って水たきを食べさせてくれた。それが本当に楽しみで、特に最初に出される白いスープがあまりにも美味しく、飲み終えてしまうのがもったいなくて、ちびちびと舐めていたことを憶えている。
当時は、治作がどんな店なのかもよくわかっていなかった。たぶん父が社長さんに連れて行っていただいた店の一つだったのだと思う。父は、若い頃自分の給料では行かれなかった店に家族を連れて行けることに、幸せを感じていたのかなあ、と思う。
ネット広告に文春マルシェが出て来た時、なにげなく眺めていて、はっ、とした。なんと、あの治作の水たきが通販で買えるのだ。スープと鶏肉がちゃんとセットされていて、土鍋で温めるだけで、あの白いスープが飲めるのだ。即座に注文し、わくわくしながら届くのを待った。届いたその夜に土鍋で温めて食べた。

つきじ治作 水たきセット(2~3人前)
つきじ治作 水たきセット(2~3人前)
¥5,900(税込)
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美味しかった。白いスープの味も昔のままだと思えた。鶏肉も柔らかかった。が、一つだけ、記憶と違っていたことがあった。それは、鶏肉の他の具が、玉葱だけだったことである。
あれ?
遠い遠い記憶の中では、私は水たきと一緒に白菜だの長葱だのを食べているのだ。だが治作の水たきは、伝統的に玉葱だけを入れると説明書きにも書いてある。
人の記憶というものは、一度脳に書き込まれても脳内でどんどん変わってしまうものらしい。おそらく昔から治作の水たきは変わっていないのだろうから、私の記憶がいつの間にか、白菜や長葱と食べる別の何かと混ざってしまったのだろう。白いスープの記憶は確かだったので、治作の水たきを食べたこと自体は、私の妄想ではないはずなのだが。
あの時に一緒に鍋を囲んだ弟も、母も、父の会社で働いてくださっていた方の何人かも、すでにこの世にはいない。父ももう齢九十を超えた。あれから父の会社は作業服からジーンズへと扱う商品を変え、働いてくださる人たちの顔ぶれも変わった。やがて母が商売の中心となり、弟がそれを手伝い、好調な時代を経て、弟の事故死をきっかけに商売も自然にすぼまって、店を支えていた母は認知症となり、父は店を畳んで会社を終わりにした。半世紀の間に、実にいろいろなことがあった。私の記憶にも白菜や長葱が追加され、やがて白いスープのことも忘れてしまっていた。

思い出した治作での夜のこと

通販で届いた白いスープの水たきを味わっている間、私は長いこと思い出していなかった、治作での夜のことを思い出していた。
私と弟は約二歳違い(弟は早生まれなので学年は一つしか違わなかったが)で、男と女の精神年齢の成長速度差もあってか、それとも元々の性格の違いゆえか、子供の頃は何かにつけて私が知ったかぶりをし、弟はそれを鵜呑みにする、という図式があった。私たちは、どうして水たきのスープが白いのかについて話していた。家の鍋物は、鱈ちりでも湯豆腐でも汁は透き通っていた。鶏肉を入れた時でもそれは同じだった。なのになぜ、ここのお鍋の汁は白いのだろう。
私は自信たっぷりに言った。牛乳が入ってるんだよ、当たり前でしょ。給食にたまに出る白いシチューは、牛乳が入ってるんだよ。
弟は、それを何歳まで信じていたのだろう。二十九歳で逝った弟に、ついぞ確かめないままになってしまった。
牛乳は入ってないよ。ごめんね、お姉ちゃん嘘ついた。
あらためて白いスープを飲み干して、ああ、私もけっこう、長く生きたんだな、と、なぜか思った。同じものを父の家にも贈ったけれど、父はどんなことを思い出しながら食べたのだろう。
いずれにしても、あの味がこんなに簡単に楽しめるようになったのだから、いろんなことを乗り越えて、とにかく生きて来て良かったな、と、今、思っている。

柴田よしき

profile

柴田よしき作家

1959年、東京生まれ。1995年「RIKO―女神(ヴィーナス)の永遠」で第15回横溝正史賞を受賞。以後、警察小説、ミステリー、SF、恋愛小説など幅広い分野の小説を執筆し続ける。近著は人気時代小説シリーズ「お勝手のあん」の『あんの信じるもの』(ハルキ文庫)。ほか、高原カフェ日誌シリーズ『風のベーコンサンド』『草原のコック・オー・ヴァン』(文春文庫)など著書多数。

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